2011/07/12

部屋 10

 浩一は自分の家以外では落ち着かない質なので、人の家で寝た事がほとんど無い。だが眠りの世界へと抵抗なく滑る滑り台を降りて行き、眠りに落ちてしまった。深夜の義男からの電話や暑さ、そして理解不能な出来事の連続に疲労した身体が、浩一を眠りの世界へと引っ張り込んだのだろう。たったの三十分くらいだったはずだがぐっすりと眠れた気がした。そんな中、夢と現実の狭間で誰かに声をかけられ浩一は目を覚ました。
「ちょっと~なんで起きないんだよ~」
 目の前にラクダ顔の人間がいる。そしてしっかりと聞かないと「モ〜モ〜」としか聞こえない声で浩一に話しかけてくる。
 ―なんだ皆藤か。
 ―なんで皆藤が?
 ―皆藤!?
「え! 何でお前ここにいんだよ! 電話しろって言ったじゃんかよ!」
 浩一は思わず皆藤の肩に手をかけ、激しく揺する。
「したよ~何回もかけたよ~。着信履歴見てみなよ~」
 本当にカタカナの「ハ」の字の形に眉を動かし、皆藤は浩一の手を払いのけた。
 皆藤からの着信は五回あった。浩一は携帯の履歴を確認しながら、魂を吐き出さんばかりに深くため息をついた。完全に夢の世界に旅立っていた浩一が悪く、事情を知らない皆藤は全く悪くない。それは十分分かっていたつもりだが、ラクダ顔の人間が一人増えただけでさらに悪化した状況に浩一はイライラした。だが少なからず救いはあった。皆藤はどこに行くにも必ずコーラを持ち歩いていたので一時期「コーラ」というあだ名がついていたほどだ。浩一は皆藤のコーラをみつけ、半ば奪い取るようなかたちで取り上げた。全速力でペットボトルのキャップを回し、半分以上残っていたコーラを一気に飲み干した。
「あ~全部飲まないでよ~」
 まるで子供だ。皆藤の見た目とは裏腹に可愛らしい言い方に殺気すら覚えた浩一は、思った事をオブラートに包まずにそのまま言った。
「いいじゃねぇかよ別に。こっちは死ぬほど喉が渇いてんだよ! しかも部屋から出れねぇんだぞ!」
「出れない? どういう事?」
 まだ何も説明をしていないので事情を知らなくて当然なのだが、そんな事情を知らない事にすら腹が立つ。皆藤が持って生まれた才能なのだろう。人をいらつかせる才能……。その才能を生かすとしたら、まずイラつきたがってる人を探さなければならないな……。
 一瞬全然関係のない事を皆藤の顔を見ながら考えている自分に気づき、浩一は馬鹿らし過ぎて少しおかしくなった。そのお陰かイラつきも無くなり、今日起きた事を皆藤に話し始めた。

「―で、冷蔵庫を開けたらこんな紙が出てきたんだよ」
 浩一はあの紙をあまり見たくなかったが、皆藤の前でビビっている姿なんて見せられる訳が無い。「馬鹿らしいよな、義男のどっきりは」くらいのテンションで皆藤に渡した。その瞬間、紙を見た皆藤は思いがけないリアクションをした。
「アハハハハハ! サイコー! よっちゃんサイコー! 何コレ、超おもしろいじゃん!」
「……だ、だろ~? 義男にしちゃ上出来だよな」
 浩一が精一杯強がって言ったせいで話が微妙にそれてしまった。紙に書いてある事の、儚いが確実に感じられる信憑性を皆藤に伝えるつもりだったのだが、間違った一方通行の道に入ってしまった。どう元の道に戻ろうか考えていると、皆藤がふと素の表情に戻り聞いてきた。
「で? 一体何がややこしい事になってるの?」
 皆藤の疑問はもっともだった。面白いどっきりにかけられた浩一が義男の部屋にいる。そこにはどんな類いのややこしさも無い。
「いやさ~、確かに面白いどっきりではあるんだけど、義男の電話は繋がらないし……。それにさっきも言ったけど、サトシの件もあるじゃない? ほんと突然声が消えたんだぜ? しかもサトシの電話も繋がらなくなっちゃったし。なんか、簡単にどっきりで済ませられない状況なんじゃねぇかって思ってるわけよ」
 皆藤がえらく神妙な顔で話を聞いていたので、なんとか伝わったのかな?と浩一が思った瞬間、
「アハハハハハ!もしかして浩一君、紙に書いてある事信じちゃってるの? ある訳無いじゃ~んそんな事~。なんでドアから出たら死ぬんだよ~。ドアの前には何も無かったよ~」
 皆藤は腹を抱えて床を転げ回って笑っている。皆藤が笑えば笑うほど、急降下で浩一のテンションと自尊心は落ちていく。しかしどうにも伝えようが無かった。昨晩の義男の電話から体験しないと分からない、全身をずっと薄氷で包まれているこの恐怖感を。
「そしたら俺、出てみようか? ドアから」
 どう伝えたものかと、ちゃぶ台を見つめながら考えていた浩一をからかうように皆藤は言った。
「違うんだよ!お前は途中からここに来たからこのヤバさが分かってないんだよ!わかんねぇのかな~、この何かヤバい感じがさ~」
「だから、俺が出れば分かるじゃない? 考えててもしょうがないよコレは。出れば一発だよ」
 皆藤の言ってる事はしごく真っ当だった。逆の立場だったら浩一はすでにドアから出ている事だろう。だが今皆藤に出て行かれたら浩一は心から困る。一度部屋から出てしまったら二度と戻ってこられない気がしてならない。他にこの時間に捕まえられそうな人間はいないし、またこの部屋で一人の時間を過ごすのは浩一には耐えられなかった。
 立ち上がろうとする皆藤の肩に手をのせ、浩一は「ちょっ……、ちょっと待とうぜ」と言うので一杯一杯だった。気勢をそがれた皆藤はふてくされたひょっとこ顔つきになる。
「え~、でも待つって何を~? よっちゃん帰ってくるまで待つって事~?」
「まぁそれも一つの手だけど……」
「だけど電話繋がらないんでしょ? 何時に帰って来るか分からないじゃ~ん」
 たしかに義男が何時に帰宅するかなんて、もしかしたら本人も分かっていないかもしれない。もし本当にどっきりだとしたら遅くとも今日中には帰ってくる気がするが、まかり間違って何か本当にヤバい事態に巻き込まれているとするなら全く見当がつかない。むしろ帰って来ない可能性だってある。浩一にしても明日はバイトがあるし、帰らない訳にはいかなかった。
「どうすんの~?」
 皆藤が空になったペットボトルでちゃぶ台を叩いている。
「どうすんのって、それが分かってたらお前なんて呼ばねぇよ!」
 思わず浩一の口から本音が出てしまった。
「ひでぇ! せっかく来たのになんでそんな事言われなきゃならないんだよ~。だったら俺もう帰るよ~」
「ごめんごめん! 冗談だよ冗談! な? とりあえずもうちょい待とうぜ」
 どうしてこんな恋人との喧嘩的なやりとりを皆藤としなければならないのか。浩一は無性に情けなくなってしまった。