2011/07/12

部屋 8

 いつの間にか空の色に少しマゼンタが入ってきていた。義男の部屋は物が少ないせいか、ちょっとした光の変化ですら如実に感じられる。傾きかけた夏の太陽は、季節特有の期待感を含んだ焦燥感を出し沈んで行く。
 浩一とサトシは、そんな夏の夕方をぼーっと眺めていた。風流だとかを感じているのではなく、ただ暑さと水分不足と話し過ぎで疲れ果てていただけだったが。
「会いたい~♪」
 その時、発情期の猫の鳴き声が響き渡ったのかと浩一は思ったが、続けて聞くと今若者達に人気の女性シンガーの歌だった。音の元はサトシの携帯のようだ。サトシはもそもそとポケットから携帯を取り出し、画面で相手を確認した途端「オーッ!」と雄叫びをあげた。
「びっくりした~。電話かよ……。ってしかも何度も言うけどその曲ダセェから!」
 浩一はインディ系の音楽が好きだったので、お人形さんのように奉られた歌手が放つ商業的な音楽が嫌いだった。中には浩一もグッと来るような素晴らしい音楽もあったが、基本的には受けつけなかった。そんな浩一も最近までは誰がどんな音楽を聞こうがそれぞれの趣味もあるし、楽しんでるならいいかと思っていたのだが、そういう無関心さが今の音楽をダメにしているんじゃないか?と、自分が音楽業界を背負っているかのような勘違いに陥り、今後はダサイものはダサイと言うぞ、と勝手に決めていた。サトシにもその話は何度もしており、その度に「はいはい」と流されていた。そんな、やけに力の入った浩一を無視してサトシは楽しそうに電話越しの会話を始めた。
「おお~! 電話くれるなんて、マジで超嬉しいんですけど!」
 浩一にはそのサトシのテンションで相手が誰であるのか大体察しがついた。最近お気に入りの子だ。サトシは会う度に違う子の話をするので、誰が誰だか全く分からないままいつも話を聞いていたのだが、今回の子は今までとは違うらしく「こんなに素敵な子に出会った事無い。コレを逃したら一生後悔する!」と、相当惚れ込んでいるようだった。大体いつも身体が軽石で出来てるんじゃないか?っていう位の軽薄さが相手にバレてしまい逃げられていた。しかし今回は、慎重に、サトシなりの誠意を持って接しているようだ。
「嬉しいな~俺の事覚えててくれたなんて~」
「いやいやホント、こんなの初めてだよ」
「違うよ~俊子ちゃんだけだって~」
「この前だって一晩中考えてたよ~」
「いやいや出ないなんてあり得ないでしょ」
「奇跡だね。あぁ間違いないね」
「だって可愛さと綺麗さと優しさの同居だよ? 無敵でしょ」
 次から次へとサトシが話す。端から聞いてるとサトシしか話していないように聞こえる。相手がいなくとも一方的に話し続けるロボットと化したサトシの頑張りは滑稽に見えたが、会話が途切れないところを見ると案外相手もまんざらでもないのかもしれない。
「え!マジで? ウソウソ!行く行く。行きます!」
 サトシのテンションがグッとあがり、本人も立ち上がった。
「え~っとね、十五分……。いや十分で参ります!」
 たまに街で電話越しの相手に本気で頭を下げて謝るサラリーマンを見かけるが、今のサトシはそんなもんじゃない。百度くらいの角度で腰を曲げ頭を下げていた。
「大丈夫だよ。絶対間に合うから! もし俺がいなくても待っててよ!」
 程なくサトシは電話を切り、天を仰ぎながらガッツポーズをした。正確に言うと、しょうゆで煮しめた雑巾の色をした天井を見ながら、笑顔でガッツポーズをした。そして何度もこの出来事の凄さを浩一に説明した。
「という訳で俺、ドロンしますんで」
 サトシは忍者が忍術を出す前の手つきで言った。浩一は電話の子に対する気合いをサトシから嫌というほど聞いていたので、止めることはせず行って来いと犬を追っ払う手つきをサトシにした。その手つきを見もせずにサトシは携帯の着信音の曲を裏声で歌いながら、軽やかなステップでドアに向かって行った。ドアの前でこちらに向き直ったサトシが、何のつもりか分からないが敬礼をしてきたので、浩一もそれに倣い敬礼をした。ニヤリとしたサトシはまた歌いだしながら振り返り、ドアを開けて外に出た。