2011/07/12

部屋 9

 義男の家のドアは薄い。本当に薄い。ドア用に使う板なのではなく、本棚の裏板に使う板をそのまま使っている感じだ。以前義男に「ドアが薄いからお前らが出てってから五分くらいたっても、まだ笑い声が聞こえる時があるんだよ」と言われた事があるくらいだ。それなのに、歌いながらドアの外に出たサトシの声がプツッと消えた。MP3プレーヤーのイヤホンが突然抜けた時と同じように。  
 その瞬間浩一は冷蔵庫から出てきた紙を思い出し、這いずりながらドアに向かった。
「サトシ! おい、いんのか?」
 返事は無い。むしろより一層、浩一の周りの静寂は濃さを増した。
「マジかよ……。冗談だろ?」
 覗き窓がついていないので、外に出なければ何も確認は出来ない。だが早朝の奥深い山のもやのように恐怖がまとわりつき、ドアを開けようとする浩一の手を止める。ハッと気づきサトシの携帯に電話をかけるが、義男と同様に繋がらなくなっていた。
「ふざけんなよ……、なんだよこれ……」
 玄関にいてもただ立っている事しか出来ない。浩一は部屋に戻りちゃぶ台の前に腰を下ろす。
「考えろ! こんなことあるわけねぇだろ。考えるのは得意なはずだ……」
 浩一は頭をかきむしり、慌てた気持ちを抑えるために深呼吸をした。
 少し冷静さを取り戻した頭で考えてみても、冷蔵庫から出てきた紙に書いていた通りにサトシが死んだとは到底考えられない。かといって急にサトシの携帯が繋がらなくなった事や、部屋の外に出たとたんに声がぷっつりと消えてしまった事は何かが起きたとしか思えない。だったら一体何が起きたのか?外に出てみないと分からないが、本能による危険回避装置が働き、外に出る事を止める。
「ダメだ、考えて答えが出る問題じゃねぇぞ……」
 数分何かを考えているようで実際は何も考えられていない時間が過ぎた。考えを先に進めるにも情報があまりに少なく、常識的に捉えても非常識的に捉えてもどうしようもなかった。目が覚めたらエジプトらしき場所にいた、という状況と同じくらいどうしていいのか分からなかった。考えすぎて疲れた浩一は倒れるように横になった。すると、一瞬でもリラックスをした事が功を奏したのか「そうか、誰か呼べばいいんじゃん」というアイデアが閃いた。
 あまりにもすんなりとアイデアが出たので、一瞬浩一は事態が他人事に感じられた。しかしその解決策は行動自体簡単だったし、第三者を関与させる事で今の状況も笑い事に変えられる気がした。天にすがる気持ちで携帯の電話帳から、この時間にヒマそうな人間を探し出し、急な話に文句を言わなそうな皆藤に電話をかけた。
「あ、浩一だけど!」
「あ~どもども皆藤です~」
「良かった〜出なかったらどうしようかと思ってたよ。今忙しい?」
「今は買い物の帰りだよ。ティッシュと醤油とシュークリームが切れちゃったからさ」
「ティッシュと醤油は分かるけど、シュークリームは切らすとかじゃないだろ……。って、そんなことはどうでもいいんだよ!ちょっとさ、説明すんのが面倒で端折るけど、今義男の家で変な状況に巻き込まれちゃってさ」
「何それ?」
「電話で説明するのはややこしいんだよ。とにかく皆藤がヒマなら義男ん家に来てくれればそれで解決すんのよ。ちょっと来てくんない? 頼む!」
「いいんだけど~、業務用の醤油を買っちゃって重いからさぁ。一旦荷物を家に持って帰ってから行くよ」
「なんで業務用の醤油……。ま、いいや。どれ位かかりそう?」
「う〜ん…三十分もすれば行けると思うよ」
「三十分か~……。まぁいいや。なるべく早めで! 頼む!」
「ほい、わかった。そんじゃ後で~」
「あ! ちょ、ちょっと待った。危ねぇ~大切な事言い忘れてたぜ。あのさ、義男の家のドアの前に着いた時点で俺に電話してくんない?」
「なんで? 入っちゃダメなの?」
「ダメダメ! 説明するのがめんどくさいから省くけど、とにかくそのややこしい事態はドアの前からの電話で解決すんのよ。な? 頼んだぞ」
「ま、いいけど。じゃ三十分後ね~」
 電話を切った浩一はガッツポーズをした。ラクダに似た見た目と、牛に似た口調の皆藤と電話をした後にこんなに爽快な気持ちになった事は今までになかった。むしろラクダと牛の化け物に感謝すらしていた。
「とりあえずこれでオッケーだろ〜」
 緊張感から解放された浩一は携帯電話を投げ出し、また横になった。