2011/07/12

部屋 5

 当たり前の事だが平日の昼間の住宅街は人が少ない。
 人が少ない住宅街は時間の流れが普段よりゆったりとしている。時間に動かされる人の姿が時の流れを意識させるのだろう。そんな町中を、転びそうになったのをギリギリで持ち堪えたサトシが急にテンションを上げたため、五分ほど灼熱の中レースをさせられた。疲れと汗だくのTシャツと引き換えに時間を手にした浩一達は、いつもより少し早く義男の家に到着する事が出来た。
 義男の家は家賃三万円、築四十年、六畳一間、駅徒歩二十五分、風呂なしトイレ共同の、家というより倉庫に近いジャンルに入る建物だ。「家賃なんてお金を捨ててるのと一緒なんだから、とにかく安い方がいい」と言う義男の考えに納得はできるが、なかなか実践するのはキツいはずだ。しかしそんな生活に一言も文句を言わず、毎日をつつましく生活している義男の姿はなんとも心強い。本気で「金より時間」と思って実行している人間というのは、周りの人間に少なからずエネルギーを与えている。
 敷地内のいつもの場所……。と言ってもゴミ捨て場の横の単なる茂みに過ぎない場所に二人は自転車を止め、義男に電話をしてみた。だが案の定繋がらないままだった。
「とりえずあがっちゃおうぜ」
 サトシが言いながら、一段抜かしで雪駄をペタペタと鳴らし二階への階段を上がって行く。浩一は顔の汗をTシャツの裾で腹を出しながら拭きつつ、サトシの後について行く。
「義男~」
 ドアをノックする。薄いベニヤ板で作られたドアは何とも張りの無い音を立てて、家主に来客の訪問を無愛想に告げる。
 部屋の中からの返事はなかった。
 義男がドアの横にある植木鉢の下にスペアの鍵を隠しているのは周知の事実だったので、我が物顔でサトシは鍵を拾い錠を開けた。
「まぁ予想通りだけど、いないね。おじゃましま~す」
 そう言いながらドアを開け勝手に部屋に入る。こういう事に躊躇が無いサトシならではだ。部屋は当然だが窓が閉めっ放しになっていたので、室外機が室内に設置してあるかのような熱気が全身に浴びせられた。
「あっちぃ~!」
 ゴン!
 一歩中に入った途端、熱風でサトシが身体をのけぞらせてきたせいで、浩一のおでこにサトシの後頭部が当たった。
「痛ぇよ!」
 浩一はおでこをさする。
「あ、ほんと? あとでゴメンってメール送っとくわ」
「サンキュー」
 突っ込みのないやりとりをしながら浩一達は部屋に入った。
 何の変哲もない、いつも通りの義男の部屋だった。玄関の横にある奇跡的な小ささのキッチン。まるで子供用のおもちゃと同じくらいのサイズだが、義男はほぼ毎日ここで料理をしているのだから慣れの力というのは素晴らしい。そして玄関から全てが見渡せるすっきりとした作りのこの部屋を、さらにすっきりとさせている理由は家具の少なさだろう。小さなちゃぶ台と座椅子、ラジオと冷蔵庫。それ以外の細々とした生活必需品は全て押し入れの中だ。浩一は前に一度押し入れの中を見た事があったが、人に説明するのが不可能なレベルの、駆け出しの抽象画家の描いた絵と見まごうほどの乱雑さだった。「これだったらゴリラの方が綺麗に押し入れを使いそうだな」と義男に言ったら、ゴリラの知能の話を延々と説明された。義男お得意の要領を得ない遠回し過ぎるたとえ話もふんだんに盛り込まれたため、浩一は聞く気が失せてしまい、どうやって押し入れの中の物を管理しているのかは分からなかった。だが、とにかく押し入れのおかげで部屋がすっきりとしている事だけは確かだった。
「あ~、なんか義男んち来んの久々かも」
 畳に横になりながらサトシが言う。
「いつ来てもなんも変わんないよな、この部屋」
 どこに行ってもすぐに横になる奴だな、とサトシを見ながら浩一は思い、ちゃぶ台の前に腰を下ろし部屋を見渡す。
 主のいない部屋というのはどうにも居心地が悪い。主が抜けてしまった部分を他人である自分が埋めているのだから、間違ったジグソーパズルをはめたままでいるようで何ともムズムズする。しかしそれとは逆に生活感のある自分とは関係の無い場所、というのは本来好奇心をそそられる事もあるのだが……、この部屋は別だ。好奇心がそそられる物が何も無いし、暇をつぶす道具すら何も無い。義男の辞書に「暇」という項目は無いのだろう。
「わかっちゃいたけど、する事ねぇな」
 着いて五分もしないうちに飽きてしまったサトシが畳を引っ掻きながら言う。そのあまりにも早い飽きっぽさと、本当に座る事しかする事の無いこの部屋が可笑しくて、浩一は鼻で笑いながら答えた。
「だな」
 こういう時にサトシは必ず、最近何か面白い事があったかを聞いてくるので、浩一はにやけそうになる顔を隠しながら「次、来るぞ」と予想していた。
「なんか最近面白い事あった?」
 一文字も予想と違わないセリフをサトシが言ったのが面白く、浩一は思わず笑ってしまった。
「……なんだよ何が面白ぇんだよ」
「いや、なんでもない。言っても仕方ないし」
 説明してもサトシがむくれるだけだと思い浩一は話を変えた。
「ま、それはいいんだけど。この前さ『水』の味をうまく説明出来ないもんか考えてみたのよ」
「水の味?」
 またおかしな事を言い始めたなって顔をしてサトシが答えた。だがそれは今までに何度も見てきた顔なので無視して続けた。浩一はこういった無駄な上に答えが出る訳でもない事を考えるのが好きなので、多い時は何時間でも考えている事があった。面白い疑問が出るたびに誰かに話すのだが、一瞬興味を持って考え出すがすぐに投げ出すタイプと、現実的にその質問自体を捉え「そんな状況無い」と、考える事すらしないタイプに分かれた。サトシが後者のタイプである事は分かっていたが、新しい発想が出るかもしれないという好奇心に負けて話してしまった。
「例えばね……、水を飲んだ事がない人がいたとして、その人に水の味を説明して欲しいって言われるのよ」
「飲ませりゃいいじゃん」
 やっぱりサトシはサトシだった。それは当然なのだが、あくまでも水の味を考えるための設定を作っただけであって、実際にそんな状況は無いと浩一も分かっている。答えが大事なのではなく、他人同士がお互いに考えを出し合い、納得のいく答えに向かって進んで行くのが大事なのだ。とにかく見えないゴールに向かって走り出し、急いだり、歩いたり、楽な走り方を発見したり。設定はその為の最初の方向付けに過ぎないのだが、その感覚をうまくサトシに伝える自信が無かったし、伝えたところでそれがサトシにとって面白い事ではない事だってある。それらをふまえた上で、無視して話を続けた。
「とにかく相手は水が飲めない状況なんだよ。その上で飲んだ事のない水の味を超知りたがってる。そんな状況でお前だったらなんて伝える?水の味を」
「そうだな~」
 今度は素直に考え始めた。中途半端な状況設定よりも、極端な状況を作り上げ端的に答えを求めた方が良い場合もあるんだなと、腕を組んで真剣に考えるサトシを見て思った。
「水だろ~……。水は水の味だよな、なんて説明すんだあの味?」
 サトシは天井を向いて、ひとり言をぶつぶつ言い始めた。
「正解なんて無いからね。自分が納得出来る答えであればいいんだよ」
 浩一は考える道筋を示したつもりだったが、サトシには上からの物言いに聞こえたようで口を尖らせて突っかかってきた。
「じゃあお前はなんて答えるんだよ?」
「俺は……、そうだな~難しいよな~これ」
 実際浩一自体の答えはまだ出ていなかった。しかし、難しければ難しいほど良い問題であり、考えるのが楽しかった。
「とにかく伝わればいい訳だから、味覚で伝える事に固執しなくたっていいんだよ。例えばほら、夏の朝の森の空気を吸ったつららの化け物をさらに冷やして、それを液体にして……。ダメだ、超ムズい!」
「ほらみろ、難しいだろ?」
 答えられないのは自分の能力不足ではないという事が証明されたのが嬉しかったのか、サトシはひん曲がった笑みを浮かべた。
 その後も、水の味をめぐる議論は見えないゴールに向かってしばらく続いた。