2011/07/12

部屋 16

「ん……?」
 浩一は今自分がおかれている状況がまったく理解出来なかった。夏の夜にしか嗅ぐ事の出来ない、空気がかいた汗の湿った匂い。空にはいつも通りの月。そんな至って普通の夏の夜の下、見慣れないアパートの二階の廊下に一人で立っていた。
「どこだ……? ここ……」
 少し周りを見回してみたが、どこにも見覚えが無い。
 照明はチカチカと点滅を続け、ところどころ剥がれ落ちたペンキと、雨垢で汚れた壁を気ままにてらしている。浩一が手を置いた柵は錆び付いてボロボロになり、もう誰の安全も守っていない。
 少々ぼーっとする頭を振り、目の前にある部屋の表札を見た。
「吉田義男……? 知らねぇな。っつうか『ヨシ』が多くねぇか? こいつ」
 隣の部屋の表札も見たが、知らない名前だった。
 見覚えも無く用も無いアパートにいても仕方がなかったし、住人が出て来て鉢合わせるのもばつが悪いと思った浩一は忍び足で階段を下りて行った。そろそろと音を立てずに浩一が階段を下りると、アパートの敷地内にゴミ捨て場があり、その横に自分の自転車が停めてあるのが目に入った。
「チャリがあるって事は、俺自分で来たのか? っつーか、やべぇな。……まったく記憶がねぇぞ。なんで俺こんなとこにいるんだ? 昨日バイトから帰って来て……。寝て……。今、夜の八時半……。は? 八時半? 信じられねぇ!」
 浩一はほぼ半日、全く記憶を失っていた。どれだけ思い出そうとしても何も頭からは出て来ない。空の貯金箱を振ってお金を出そうとしているようだった。
「うわ〜やべぇなこれ。なんか病気か? それとも頭でも殴られたか?」
 色々な角度から頭を触ってみたがどこも痛くない。ただ、全身に疲労感はあった。
 浩一の頭には腑に落ちない事が大量にあったが、とにかく家に帰ろうと自転車を引っ張り出し跨がった。錆び付いた自転車は、浩一が跨がるといつものように「ギシッ」と音を立てる。そして、ペダルに足を乗せ自転車を漕ぎ出そうとした瞬間、何かが一瞬頭をよぎった。後ろ髪が引っ張られたように浩一はアパートを振り返ったのだが、湯気のように一瞬にしてその何かは霧散してしまった。
「まぁ、いいか…」
 そう言って浩一はペダルに置いた足に力を入れ、自転車を漕ぎ出したのだった。